幸福論

『ずっと昔、私のお父さんがね、泊まりでゴルフ行くんだーってすごく張り切ってたの。前日から着替えとかも全部用意して、子供みたいだねってお母さんと笑ってたんだー。君が行く時は私がお弁当作ってあげようか』

 

何となくの背景や会話の輪郭は僕の頭にこびりついているのであるが、それが一体誰の言葉だったのか、今はもうどれだけ考えても思い出すことができない。あまり裕福とは言えない家庭で育った子だったことだけは何となく記憶に残っている。

 

ご存知の通り、ゴルフというのは何とも金のかかるスポーツである。道具を揃えて練習場に通うだけで10万円単位の金がかかるし、コースに出れば毎回諸々で2万円弱くらいは軽く飛んでいく。彼女の父親にとって、ゴルフ旅行はそうそう気軽に行ける類のイベントではなかったことは想像にたやすい。

 

確かその彼女の両親は離婚していたはずだ。彼女が幼い時分に目にした「ゴルフ旅行に張り切る父親とそれを見守る母親」というシーンはきっと彼女にとって、やもすれば少々美化された形ではあったにせよ『幸せな家庭としての思い出の1ページ』の象徴であったのだろう。

 

金、というのは非常に困ったものである。僕は独身だし、自分1人で適当に生きていく分にはそこまで贅沢しなければ特に困らない。月に何回かゴルフに行くくらいでは財政基盤はビクともしないし、今更そんなことで張り切ったりはしない。多少無茶な遣い方をしたってその当月さえ耐え抜けばどうにでもなるし、翌月になればその金を何に遣ったかなんて忘れてしまう。

 

しかしながら、お金持ちの家で生まれ育ったわけではない僕にとって、金を遣うという行為は時に罪悪感を伴い、それは金額の多寡というよりも遣い方に依存する気がする。清貧が美しいなどというくだらない講釈を垂れるつもりは毛頭ないし、どちらかと言うとこれまで清貧なんてクソ食らえという思想で生きてきたと思う。基本的に僕はマイナスのエネルギーをバネにするタイプの人間で、金銭への執着の根本はおそらく養育環境にあるのだが、この辺りの思想に後悔はしていないし、きっとこれからもそうなのだろう。

 

どちらかというと快楽主義、即物主義的な僕はあくまで自分勝手な欲望を満たすために金をドブに捨てていくし、そうやって強迫的に浪費を重ねることによってどこか心の埋まらない部分は確実に満たされているのであるが、それと同時に大切な、大切な金をなぜこんな下らないことに遣うのか、という葛藤に苛まれている。貧乏、という恐怖からの逃避なのかもしれない。まあサラリーマンの僕に富豪のような散財ができるわけはなく、わざわざ大袈裟に書くほどの金額なんてそもそも使えない。

 

ただ、明らかに無駄なその1万円札を財布から抜き出して、底に穴の空いた心の容れ物に投げ入れる時、僕の脳裏には年に数回のゴルフ旅行を翌朝に控えた彼女の家族、特に家計への圧迫を容認して夫を見守る妻の姿が亡霊のようにチラチラと浮かぶのだ。

 

『キミガイクトキハワタシガオベントウツクッテアゲヨウカ』

 

※この話にジェンダー論は一切関係ありません。